なぜ今?世界の美術館が略奪文化財返還に直面する背景と大英博物館の葛藤

世界中の主要な美術館や博物館が、かつて植民地や占領地から持ち去られた文化財の返還要求に直面しています。特にヨーロッパの旧宗主国が所蔵する膨大なコレクションに対し、旧植民地国からの声が高まり、近年その動きはかつてないほど加速しています。なぜ今、この問題がこれほどまでに注目され、具体的な返還が進められているのでしょうか。そして、「世界の博物館」とも称される大英博物館は、この潮流の中でどのような立場に置かれているのでしょうか。
この記事では、略奪文化財返還問題の歴史的背景から、近年の返還加速の要因、各国の具体的な動き、そして大英博物館が抱える葛藤と課題について、多角的に掘り下げていきます。
略奪文化財問題の歴史的背景
文化財返還問題は、主に19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ列強による植民地支配や戦争と深く結びついています。この時代、ヨーロッパの探検家、軍人、植民地行政官、宣教師、貿易商、人類学者などが、アジア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカなど世界各地から、貴重な文化財や美術品、さらには人骨などを本国に持ち帰りました。
これらの文化財の移動は、必ずしも単一の経緯をたどったわけではありません。軍事侵攻による「戦利品」としての略奪、盗掘、現地の権力者からの購入や交換、あるいは研究目的での収集など、その手段は多岐にわたります。しかし、多くの場合、植民地という圧倒的に不平等な力関係の中で行われたものであり、被支配者側の同意が十分に得られていたとは言えません。
持ち帰られた文化財は、ヨーロッパの博物館に収蔵され、帝国の力の誇示や、非ヨーロッパ文化の「原始性」を示すために展示されました。これは、ヨーロッパによる「文明化の使命」を正当化するためにも利用されたのです。
一方、植民地支配から独立を達成した国々にとって、これらの文化財は単なる美術品や歴史的遺物以上の意味を持ちます。それは、失われた歴史を取り戻し、多様な部族や地域を超えた「国民」としての連帯を築くための、ナショナルアイデンティティーの象徴として不可欠なものなのです。ベナンのような旧ダホメ王国があった地域では、かつての王国の象徴であった文化財を可視化し共有することが、国民統合の中心になると考えられています。
独立後、多くの旧植民地国は旧宗主国に対し、持ち去られた文化財の返還を求めてきました。しかし、文化財が流出した経緯の複雑さや、旧宗主国側の法的な制約(国有財産の譲渡禁止など)を理由に、その要求は長年にわたりほとんど受け入れられませんでした。略奪や盗掘による違法な持ち出しだけでなく、合法的な売買によるものまで含めると、返還を巡る主張はしばしば対立しました。例えば、フランスは合法的に収集された文化財に対する韓国の返還要求を拒否した例があります。
なぜ今、返還の動きが加速しているのか?
長年停滞していた文化財返還の動きが、ここ数年で急速に加速しています。その背景には、複数の要因が複雑に絡み合っています。
マクロン大統領の声明と「サール・サヴォワ報告書」
潮目が変わった大きなきっかけの一つは、フランスのエマニュエル・マクロン大統領の登場です。2017年、ブルキナファソでの演説で、マクロン大統領は「アフリカの文化遺産の大部分がフランスにあることを受け入れられない」「歴史的な説明があるとはいえ、妥当で、持続的で、絶対的な正当化の根拠はない」と述べ、アフリカの文化遺産をアフリカへ返還するための条件整備を進める方針を打ち出しました。これは、それまで国有財産の譲渡禁止を理由に返還を拒否してきたフランス政府の姿勢を180度転換させる画期的なものでした。
マクロン大統領は、セネガル人の作家フェルウィン・サール氏とフランス人の美術史学者ベネディクト・サヴォワ氏に調査を依頼し、2018年11月に「アフリカの文化遺産に関する報告書:新しい関係性の倫理に向けて」(通称「サール・サヴォワ報告書」)が発表されました。この報告書は、文化財の略奪が植民地時代の不平等かつ暴力的な関係において行われた「民族に対する罪」であると指摘し、取得経緯に関わらず、返還の求めがあればそれに応じるよう勧告しました。また、返還は一時的ではなく永続的なものであるべきだとし、法改正や共同での文化財リスト作成、デジタル化、専門家間の協力など、具体的な措置を提案しました。
この報告書は、ヨーロッパ各地の博物館に大きな衝撃を与え、文化財返還に関する議論を活性化させました。
過去の植民地支配への批判の高まり
返還に向けた機運をさらに高めたのは、2020年に世界的に広がったBlack Lives Matter(BLM)運動です。現代の黒人に対する差別の根源として、過去の奴隷貿易や植民地支配に批判の目が向けられるようになり、植民地時代に持ち去られた文化財を所蔵する博物館に対しても、「植民地主義に誠実に向き合っていない」として圧力が強まりました。ドイツのフンボルトフォーラムへの抗議運動や、大英博物館のBLM連帯表明に対する批判などがその例です。
こうした動きは、文化財の略奪だけでなく、植民地時代の残虐な統治や奴隷貿易といった負の歴史全体を見直す動きとも連動しています。ドイツがナミビアでのジェノサイドを認め謝罪したり、ベルギーがコンゴのルムンバ首相暗殺への関与を認め謝罪し遺体を返還したり、オランダが奴隷貿易を「人道に対する罪」として謝罪したりするなど、旧宗主国側が過去の責任を認める動きが相次いでいます。
対アフリカ外交の重要性の高まり
倫理的な側面に加え、実利的な外交戦略も返還加速の背景にあります。アフリカは経済的・安全保障上の重要性が高まっており、欧米各国は中国やロシアの台頭に対抗するため、アフリカ諸国との関係強化を図っています。文化財返還は、旧植民地国との関係を刷新し、信頼を構築するための有効な手段の一つと見なされています。フランスがマリやブルキナファソで影響力を失いつつある中で、文化財返還が関係改善の糸口になるという見方もあります。
これらの要因が複合的に作用し、長年「門前払い」だった文化財返還が、欧米各国の政府や博物館にとって無視できない課題となり、具体的な行動へとつながっているのです。
具体的な返還の動き
近年、欧米各国で具体的な文化財の返還や、返還に向けた合意が相次いでいます。
フランス: マクロン大統領の方針に基づき、2021年11月にはベナンから略奪された王宮芸術品26点が返還されました。これらはダホメ王国の王を象徴する木像や玉座などで、ケ・ブランリ美術館が所蔵していたものです。また、セネガルには19世紀の武将の剣と鞘が貸与され、その後正式に返還されました。ベナンには返還された文化財を収蔵・展示するための新しい博物館建設が計画されており、フランスも支援を行っています。
ドイツ: 2022年12月、ドイツはナイジェリアにベニン・ブロンズ20点を返還しました。これは、ドイツの美術館・博物館が所蔵するベニン・ブロンズ計1100点の所有権をナイジェリアに移管するという合意に基づくもので、今後さらに多くの文化財が返還される予定です。また、2019年にはナミビアから持ち出された航海用の石製十字架が返還されました。ドイツ博物館協会は、植民地的状況で得られた文化財の取扱いに関するガイドラインを策定するなど、返還に向けた体制整備を進めています。
オランダ: 2020年10月、オランダ政府は植民地起源の文化財について、住民の合意がない持ち去りは「不正義」であり「無条件に」返還すべきだという報告書を発表し、返還方針を明らかにしました。旧植民地から盗まれたことが証明できる文化財は無条件返還の対象となります。
イギリス: 大英博物館のような大規模博物館は慎重な姿勢を崩していませんが、小規模な博物館や大学では返還の動きが見られます。ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジやアバディーン大学はベニン・ブロンズをナイジェリアに返還しました。ロンドンのホーニマン博物館も、暴力的に奪われたものであることを理由に、旧ベニン王国由来の工芸品72点(ベニン・ブロンズ含む)の返還を発表しました。グラスゴーの美術館は、インドから違法に持ち出された工芸品7点を返還しました。また、マンチェスター博物館はオーストラリアの先住民族に神聖な文化財43点を返還しています。
バチカン: 2022年末、バチカン美術館は所蔵するパルテノン神殿の彫刻の一部3点をギリシャ正教会大主教に「寄付」する形で返還することを発表しました。
これらの事例は、文化財返還が単なる議論の段階から、具体的な行動へと移行していることを示しています。
大英博物館の葛藤と現状
世界最大級のコレクションを誇る大英博物館は、略奪文化財返還問題において最も注目される機関の一つです。特に、古代ギリシャのパルテノン神殿彫刻(エルギン・マーブル)、古代エジプトのロゼッタ・ストーン、そしてナイジェリアのベニン・ブロンズといった主要な展示品は、長年にわたり返還要求の対象となっています。
大英博物館は、これらの文化財の多くは合法的な手段で取得されたものであると主張しています。例えば、エルギン・マーブルについては、19世紀初頭に英国の外交官エルギン伯爵が、当時ギリシャを支配していたオスマン帝国から許可を得て持ち出したものであり、英国政府が買い取ったものだと説明しています。しかし、ギリシャ側は、支配国との取り決めは無効であり、彫刻は「略奪された」ものだと主張しています。
また、大英博物館は1963年の大英博物館法により、所蔵品の恒久的な譲渡が原則として禁止されています。この法的な制約が、返還要求に応じられない主な理由の一つとされています。英文化相も、エルギン・マーブルは「イギリスに所属するものだ」と発言し、恒久的な返還は「災いを呼ぶ」として、法律を変える必要はないという姿勢を示しています。
一方で、大英博物館は自らを「普遍的美術館」と位置づけ、世界各地の文化財を一堂に集めることで、人類全体の文化遺産を保存し、研究し、あらゆる人々に公開するという役割を強調しています。2002年には、ルーヴル美術館など欧米の主要な18館とともに「普遍的美術館の価値とその重要性についての宣言」を発表し、過去の行為は当時の文脈で判断すべきであり、特定の国家ではなく普遍的な人々に奉仕する義務があると訴えました。
しかし、この「普遍的美術館」という主張は、植民地時代の不平等な収集を正当化するものだとして批判も根強くあります。BLM運動の高まりの中で、大英博物館が植民地時代の略奪品を多く保有していることへの批判はさらに強まりました。評議員の辞任や、SNSでの厳しい意見などがその表れです。
近年、大英博物館とギリシャ政府の間でエルギン・マーブルに関する交渉が行われていると報じられています。恒久的な返還は難しいものの、ギリシャ国外で公開されたことのない他の古典品との交換による「貸与」の可能性などが憶測されています。大英博物館側は「長期的なパートナーシップを検討中」であり、「建設的な話し合いが継続している」と述べていますが、具体的な合意には至っていません。
ベニン・ブロンズについても、大英博物館はフランスやドイツ、アメリカの博物館よりもはるかに多くの点を所蔵していますが、ナイジェリアからの度重なる返還要求に対し、返還について話し合うことすら拒んでいると批判されています。ただし、ナイジェリアに新設される美術館への貸し出しは検討されているようです。
このように、大英博物館は法的な制約、歴史的な主張、そして「普遍的美術館」としての役割と、高まる返還要求や倫理的な批判との間で、複雑な葛藤を抱えています。

返還に向けた課題
文化財返還は、単に物を元の場所に戻せば解決する問題ではありません。そこには様々な課題が存在します。
取得経緯の特定と立証
文化財がどのようにして持ち出されたのか、その正確な経緯を特定し、略奪や盗掘といった違法性を立証することは容易ではありません。記録が不十分であったり、双方の主張が食い違うことも多々あります。1970年のユネスコ条約以前に取得された文化財は返還義務の対象外となるなど、国際的な枠組みにも限界があります。
返還先の保管・展示体制
返還された文化財を適切に保管・展示できる施設や技術が、返還を求める国側で十分に整備されていないという問題が指摘されることがあります。適切な温度・湿度管理や修復技術がなければ、文化財が劣化したり散逸したりするリスクがあります。旧宗主国側はこれを返還を拒否する理由の一つとしてきましたが、近年はベナンのように新しい博物館を建設する計画が進められたり、旧宗主国側が財政的・技術的な支援を申し出たりする動きも見られます。
法的な制約と所有権
多くの旧宗主国では、国立博物館の所蔵品が国有財産として法律で譲渡が禁止されています。返還を実現するためには、フランスのように特別法を制定したり、法律を改正したりする必要があります。また、「返還」という言葉自体が、旧宗植民地側が所有権を主張するニュアンスを含むため、所有権の争いを避けるために「貸与」や「引き渡し」といった形が取られることもあります。韓国への古文書の「貸与」という形で返還したフランスの例や、日本の対馬の仏像を巡る「返還」と「引き渡し」の言葉の齟齬などがその例です。
普遍的なアクセスと研究機会
文化財が一国に集中することで、学術的な研究が進みやすくなるという意見や、「普遍的美術館」として世界中の人々に文化財へのアクセスを提供するという役割を失うことへの懸念もあります。返還によって文化財が散逸し、研究や公開の機会が失われることを危惧する声も聞かれます。デジタル化による情報共有や、共同での研究・展示といった新しい協力関係の構築が求められています。

ポストコロニアリズムの視点
略奪文化財返還問題は、ポストコロニアリズムという視点から捉えることで、その本質がより深く理解できます。ポストコロニアリズムとは、植民地主義や帝国主義の文化的、政治的、経済的遺産を批判的に研究する学問分野です。植民地支配が終わった後もなお残る、支配した側とされる側の間の不均衡な関係性や、被支配者側が内面化してしまった劣等感、あるいは旧宗主国が作り上げた「東洋」のような歪んだ他者表象などを問い直します。
文化財返還は、まさにこのポストコロニアルな状況を乗り越えようとする試みの一つです。植民地時代に奪われた文化財を取り戻すことは、単に物理的な移動だけでなく、歴史的な不正義を正し、失われた尊厳やナショナルアイデンティティーを回復するプロセスです。それは、旧宗主国側が過去の行為に対する責任を認め、旧植民地国と対等な関係を築こうとする意思表示でもあります。
文化財が旧植民地国において「国民づくり」の象徴となるという指摘は、文化財がナショナルアイデンティティーの構築に果たす役割を強調しており、これもポストコロニアリズムの重要なテーマである文化ナショナリズムと関連しています。
ポストコロニアリズムの理論家であるエドワード・サイードの「オリエンタリズム」が、西洋が東洋をどのように表象し、それが権力と結びついていたかを明らかにしたように、略奪文化財は、旧宗主国が旧植民地をどのように捉え、支配を正当化するために利用したのかを示す具体的な証拠とも言えます。文化財の返還は、こうした歪んだ表象や不均衡な関係性を是正し、新しい倫理的な関係性を構築するための重要なステップなのです。
まとめ
世界の美術館が直面する略奪文化財返還問題は、過去の植民地支配の遺産であり、歴史認識、ナショナルアイデンティティー、国際関係、そしてポストコロニアリズムといった多岐にわたる要素が絡み合う複雑な問題です。近年、マクロン大統領の声明、BLM運動、対アフリカ外交の重要性といった要因が重なり、この問題はかつてないほど注目され、具体的な返還の動きが加速しています。
フランスやドイツ、オランダといった国々が返還方針を打ち出し、一部の文化財が実際に返還される中で、大英博物館のような大規模博物館は法的な制約や「普遍的美術館」としての立場から慎重な姿勢を崩していません。しかし、エルギン・マーブルやベニン・ブロンズといった主要なコレクションに対する返還要求は高まり続けており、対話や貸与といった形での解決が模索されています。
文化財返還は、取得経緯の特定、返還先の体制整備、法的な課題、所有権の問題など、多くの困難を伴います。しかし、これは単なる物の移動ではなく、過去の不正義を正し、旧宗主国と旧植民地国が対等な関係を築き、新しい文化的な協力関係を構築するための重要なプロセスです。
この問題は、世界中の博物館や政府、そして私たち一人ひとりが、過去の歴史とどのように向き合い、未来に向けてどのような関係性を築いていくのかを問いかけています。対話と相互理解を通じて、文化財が持つ歴史的・文化的価値が、その由来の地でも、そして世界でも適切に共有され、尊重される未来を目指すことが重要です。
この複雑な問題について、あなたはどう考えますか? ぜひ、この機会に略奪文化財返還問題についてさらに調べてみたり、議論に参加したりしてみてください。