坂本龍馬の脱藩理由とは?「龍馬の生まれたまち記念館」で迫る幕末の真実

幕末の動乱期に彗星のごとく現れ、わずか33年の生涯で日本の夜明けに大きな足跡を残した坂本龍馬。彼の生涯の中でも特にドラマチックで、多くの人々の想像力をかき立てるのが「脱藩」という行動です。なぜ龍馬は、生まれ育った土佐藩を離れるという、当時としては極めて重い決断を下したのでしょうか?その理由を探ることは、激動の時代を駆け抜けた龍馬の真実に迫る鍵となります。
本記事では、坂本龍馬の生い立ちから脱藩に至る背景、そして脱藩後の目覚ましい活動をたどりながら、その脱藩理由について様々な角度から考察します。そして、龍馬の少年時代から脱藩までを中心に紹介する「龍馬の生まれたまち記念館」を訪れることで、彼の決断の真実にどのように迫れるのかについてもご紹介します。
坂本龍馬、その生い立ちと土佐藩の郷士
坂本龍馬は、天保6年(1835年)11月15日、現在の高知県高知市上町に生まれました。父は坂本八平、母は幸。5人兄弟の末っ子でした。坂本家は、もともと呉服商などを営む豪商「才谷屋」から分家し、郷士の株を取得した家柄です。郷士とは、武士の身分を持ちながら農業などに従事する者で、土佐藩においては、関ヶ原の戦い後に土佐に入った山内家に従わなかった在地武士や、後に株を買って武士身分を得た者などがいました。坂本家は経済的に非常に裕福であり、龍馬は恵まれた環境で育ちました。
幼少期の龍馬については、「泣き虫」や「愚鈍」といった評価もあったようですが、記録は少なく、真偽は定かではありません。12歳で楠山塾に通い始めますが、すぐに退塾。上士の子との喧嘩が原因とも言われています。この年に母を亡くし、継母の伊与に育てられます。姉の乙女とは特に仲が良く、伊与の最初の嫁ぎ先である川島家で「ヨーロッパ」の愛称を持つ川島猪三郎から世界の話を聞かされた経験は、後の龍馬の世界への関心に繋がったと考えられています。
14歳で日根野道場に入門し剣術を始めると、めきめきと腕前を上げ、19歳で江戸へ剣術修行に出ます。江戸では北辰一刀流の千葉定吉道場に入門。この江戸滞在中に、嘉永6年(1853年)のペリー率いる黒船来航を目の当たりにします。沿岸警備に動員された龍馬は、異国の軍事力の脅威を肌で感じました。当初は強硬な攘夷思想を持っていましたが、土佐に帰郷後、河田小龍からジョン万次郎を通じて得た海外事情や通商航海論を聞かされ、単純な攘夷論では日本を守れないと考えるようになります。
激動の幕末と脱藩への道
龍馬が青年期を迎えた幕末は、まさに日本が大きく揺れ動いていた時代です。開国か攘夷か、幕府を支持するか倒すか、様々な思想が渦巻き、多くの志士たちが活動していました。文久元年(1861年)、27歳になった龍馬は、親友でもある武市瑞山が結成した尊王攘夷を掲げる土佐勤王党に加盟します。翌年には武市の密書を持って長州藩の久坂玄瑞を訪ね、「草莽の志士が立ち上がらなければならない」という思想に触れ、感銘を受けたとされています。
そして文久2年(1862年)3月、龍馬は土佐藩を脱藩します。当時、藩の許可なく藩外に出ることは重罪であり、本人だけでなく家族や親戚にも累が及ぶ可能性がありました。それでも龍馬は脱藩という道を選んだのです。
従来の脱藩理由説:理想を追う英雄像
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』をはじめ、多くの創作物で描かれてきた龍馬像は、藩の古い体制や考え方に縛られることを嫌い、日本の将来のために藩の枠を超えて自由に活動することを求めて脱藩した、というものです。土佐勤王党の過激な活動方針に疑問を感じた、あるいは藩の方針(公武合体論)に限界を感じ、より大きな視点で国を変えたいという強い志があった、といった理由が挙げられます。これは、龍馬の先見性や行動力、理想主義といった側面を強調する解釈であり、多くの人々に受け入れられてきました。
コンテキストから読み解く新たな脱藩理由の可能性
しかし、提供されたコンテキスト(特にsake-asaka.co.jpの情報)からは、従来の英雄的な脱藩説とは異なる、あるいはそれを補完するような新たな視点が提示されています。
土佐藩の密偵としての脱藩説
一つの興味深い説は、龍馬の脱藩が、実は土佐藩の意図による「偽装脱藩」であったというものです。幕末の社会情勢が激変する中で、各藩は情報収集に力を入れており、危険な諜報活動には下級武士が使われることが多かったと指摘されています。これは、万が一捕まっても藩への影響を最小限に抑えるためでした。
龍馬は脱藩前に土佐藩家老福岡家の「御用日記」に剣術習得願いが受理され、千葉道場に派遣された記録があり、これが土佐藩による雇傭、つまり密偵としての始まりであった可能性が示唆されています。脱藩は、藩の密偵としての顔ができた龍馬が、幕府などから追求された際に藩に累が及ぶのを防ぐために、藩との繋がりが切れたように見せかけるための措置だったというのです。この説によれば、龍馬の脱藩は彼の個人的な決意というよりは、藩の戦略的な判断によるものだったということになります。
また、龍馬が姉の乙女に送った手紙の飛脚料が非常に高額であったことから、単なる家族への手紙ではなく、乙女を情報の中継基地として利用し、本信に付随させて送っていたのではないかという推測も、彼が藩の密偵であった可能性を裏付ける傍証として挙げられています。
二重スパイ説
さらに、脱藩後に勝海舟と出会った龍馬が、土佐藩の密偵でありながら、幕府の諜報畑を歩んできた勝海舟に見出され、幕府の隠密、すなわち二重スパイとなった可能性も指摘されています。勝海舟が龍馬の並々ならぬ素質を見抜き、彼を取り込んだというのです。長崎滞在中に英国の武器商人グラバーと接点を持ったことも、こうした諜報活動や藩を超えた動きと関連付けられています。
これらの説は、従来の「理想を追う純粋な志士」という龍馬像とは異なり、彼が幕末という複雑な時代において、藩や幕府、さらには海外勢力の間で情報戦に関わる、より現実的で多面的な顔を持っていた可能性を示唆しています。
脱藩後の龍馬の躍動:勝海舟、亀山社中、そして海援隊
脱藩後の龍馬は、まさに水を得た魚のように日本の将来を見据えた活動を展開します。その転機となったのが、幕府の軍艦奉行並であった勝海舟との出会いです。当初は勝を斬るつもりで訪ねたとも言われますが、勝の広い視野と日本の海軍力強化の必要性を説く言葉に感銘を受け、弟子入りします。
勝海舟の片腕として、龍馬は神戸海軍操練所の設立に奔走し、航海術や海軍の知識を学びました。しかし、池田屋事件や禁門の変の影響で操練所が閉鎖されると、行き場を失った龍馬たちは薩摩藩の庇護を受け、長崎で「亀山社中」を設立します。これは日本初の商社とも言われ、海運業や貿易、航海術の訓練機関としての役割を担いました。
亀山社中を拠点に、龍馬は薩摩藩と長州藩という犬猿の仲であった両藩を結びつけるために奔走します。互いの利害(長州藩への武器供給と薩摩藩への米の供給)を調整し、両藩の面子を保つ交渉術によって、慶応2年(1866年)には薩長同盟を成立させます。これは幕府に対抗できる一大勢力の誕生であり、倒幕運動を大きく前進させる決定的な出来事でした。
薩長同盟成立の直後には、伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われますが、お龍の機転と三吉慎蔵の助けで危機を脱します。この寺田屋事件での負傷を癒やすため、お龍と薩摩の霧島へ向かった旅は、日本初の新婚旅行とも言われています。
慶応3年(1867年)、土佐藩は薩長に遅れをとっている状況を打開するため、龍馬に接近します。参政の後藤象二郎との会談を経て、龍馬は脱藩を許され土佐藩に復帰。亀山社中は土佐藩の外郭組織である「海援隊」となり、龍馬はその隊長に就任します。海援隊は運輸、貿易、教育など多岐にわたる活動を行い、土佐藩の海軍力強化に貢献しました。
新国家へのビジョン:船中八策と大政奉還
海援隊隊長となった龍馬は、武力による倒幕ではなく、話し合いによって新しい国家を作ることを目指します。慶応3年(1867年)6月、土佐藩船夕顔丸の中で、後藤象二郎に新国家の構想を示す8つの策を提案しました。これが有名な「船中八策」です。
船中八策には、大政奉還(政権を朝廷に返すこと)をはじめ、上下両院の議会開設、有能な人材の登用、不平等条約の改正、憲法制定、海軍拡張、御親兵設置、通貨政策などが盛り込まれていました。これは、後の明治新政府の基本方針である五箇条の御誓文にも繋がる、近代国家の青写真とも言える画期的な内容でした。
船中八策の提言を受けた土佐藩は、前藩主山内容堂を通じて15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白します。慶喜はこれを受け入れ、慶応3年(1867年)10月14日、政権を朝廷に奉還しました。これにより、260年以上続いた江戸幕府による武家政治は終焉を迎えたのです。龍馬は、薩長同盟によって倒幕への流れを作り、船中八策によって新国家の方向性を示し、大政奉還という形で血を流すことなく政権交代を実現させるという、まさに日本の歴史を大きく動かす立役者となりました。
「龍馬の生まれたまち記念館」で脱藩の真実に迫る
坂本龍馬が生まれ育ち、脱藩を決意するまでの日々を過ごした高知市上町には、「龍馬の生まれたまち記念館」があります。この記念館は、龍馬の人間形成の基盤となった家族やまち、そして彼が土佐藩を脱藩するまでの少年・青年時代のエピソードを中心に紹介しています。
記念館では、当時のまちの様子や歴史を、映像や模型、パネル展示などで分かりやすく学ぶことができます。特に、龍馬が脱藩を決意するに至るまでの内面や、当時の土佐藩の状況について、様々な資料や解説を通じて理解を深めることができます。従来の英雄的な脱藩説だけでなく、コンテキストで触れたような藩の密偵としての側面や、当時の複雑な政治状況が龍馬の決断にどう影響したのかなど、多角的な視点から考えるヒントを得られるかもしれません。
記念館には、バーチャル体験映像システムも導入されており、バーチャル4面シアターでは龍馬の少年時代や青年時代のエピソードを臨場感たっぷりに体験できます。時のトンネルでは、歩く動きに合わせて床面の映像が変化し、当時のまちの雰囲気を体感できます。バーチャル写真館では、龍馬やお龍などの衣装を重ねて記念撮影も可能です。

記念館を起点とした「龍馬の生まれたまち歩き 土佐っ歩」に参加すれば、龍馬誕生地の碑や、彼が通った道場跡など、ゆかりの史跡を巡りながら、ガイドの説明を聞くことができます。龍馬が実際に歩いたであろうまちを肌で感じることで、彼の生きた時代や脱藩という決断の重みをよりリアルに感じられるでしょう。
結局、龍馬の脱藩理由は何だったのか?
坂本龍馬の脱藩理由については、従来の「理想を追って藩を飛び出した」という英雄的な解釈と、コンテキストで紹介したような「藩の密偵としての偽装脱藩」という説が存在します。どちらか一方だけが真実であると断定することは難しく、おそらくその両方の要素が複雑に絡み合っていたと考えるのが自然かもしれません。
龍馬の中に、藩の枠を超えて日本全体のために活動したいという強い志があったことは間違いありません。ペリー来航や河田小龍との出会いを通じて、世界に目を向け、日本の将来を真剣に考えるようになった彼は、土佐藩という小さな組織に留まることに限界を感じていたでしょう。勝海舟のような優れた人物から学び、新しい時代を切り拓くためには、藩の束縛から自由になる必要があったと考えられます。
一方で、当時の土佐藩が情報収集に力を入れており、龍馬がその一端を担っていた可能性も否定できません。藩の戦略として、藩籍を離れた立場で自由に活動させる方が、より重要な情報を得られたり、藩としては直接関与できない交渉(薩長同盟の周旋など)を行わせたりする上で都合が良かったという側面もあったかもしれません。龍馬自身も、藩の意図を理解しつつ、それを自身の理想実現のための手段として利用した可能性も考えられます。
龍馬の脱藩は、単なる個人的な反抗や理想主義の発露だけでなく、幕末という時代の要請、土佐藩の思惑、そして龍馬自身の類まれな能力と志が複雑に絡み合った結果だったと言えるでしょう。彼の行動の裏には、現代のビジネスマンにも通じるような、柔軟な思考、大胆な行動力、そして何よりも「日本を今一度洗濯いたし申候」という強い使命感があったことは間違いありません。

まとめ:龍馬の脱藩に込められた意味
坂本龍馬の脱藩は、彼の生涯における大きな転換点であり、その後の日本の歴史を動かす重要な一歩となりました。その理由については様々な説がありますが、いずれにしても、彼は藩という枠を超え、日本全体、さらには世界を見据えた活動を展開するための自由を手に入れたのです。
脱藩後のわずか5年間で、勝海舟との出会い、神戸海軍操練所での学び、亀山社中・海援隊の設立、薩長同盟の成立、そして船中八策に基づく大政奉還の実現と、次々に歴史的な偉業を成し遂げました。これらの活動は、彼が脱藩によって得た自由な立場と、持ち前の柔軟性、行動力、そして何よりも人脈を活かした結果と言えるでしょう。
龍馬の脱藩理由の真実は、未だ完全に解明されているわけではありません。しかし、その行動が日本の近代化に不可欠なものであったことは確かです。高知にある「龍馬の生まれたまち記念館」を訪れ、龍馬が育った環境や脱藩までの道のりを知ることは、彼の決断の背景にある複雑な事情や、そこに込められた彼の熱い想いを理解する上で、きっと大きな助けとなるはずです。
幕末の風雲児、坂本龍馬。彼の「脱藩」という行動に隠された真実を、ぜひあなた自身の目で、肌で感じてみてください。

龍馬の生まれたまち記念館
- 住所:〒780-0901 高知市上町2丁目6番33号
- 開館時間:展示館 8:00~19:00(最終入館18:30)
- 入館料:一般 300円(高校生以下無料)
- お問い合わせ:088-820-1115
- 公式サイト:https://ryoma-hometown.com/
(※開館時間、入館料等は変更される場合があります。事前に公式サイト等でご確認ください。)