オーバーツーリズムが日本の世界遺産を蝕む?白川郷・厳島神社の現状

近年、世界的に問題となっている「オーバーツーリズム」。特定の観光地に観光客が集中しすぎることで、地域住民の生活や自然環境、文化、景観などに様々な悪影響が生じる現象です。日本でも、多くの人気観光地、特に世界遺産登録された地域でこの問題が顕在化しています。
世界遺産は、人類共通の宝として未来に引き継ぐべき貴重な資産です。しかし、その価値ゆえに多くの人々が訪れることで、皮肉にもその保全が脅かされるという事態が起こっています。本記事では、日本の代表的な世界遺産である岐阜県の白川郷と広島県の厳島神社を事例に、オーバーツーリズムの現状、地域が直面する課題、そしてそれに対する取り組みについて詳しく掘り下げていきます。
オーバーツーリズムとは?なぜ日本の世界遺産で問題に?
オーバーツーリズムは、単に観光客が多いというだけでなく、その「量」が地域の「受け入れ容量」を超え、負の影響をもたらしている状態を指します。具体的には、以下のような影響が挙げられます。
- 住民生活への影響: 交通渋滞、公共交通機関の混雑、騒音、ゴミ問題、物価や家賃の高騰など、地域住民の平穏な生活が脅かされます。
- 自然・環境への影響: 貴重な自然環境の踏み荒らし、ゴミの増加、排水問題などにより、生態系や景観が悪化します。
- 文化・景観への影響: 伝統的な文化や生活様式が商業化により変容したり、景観が損なわれたりします。
- 観光体験への影響: 観光地が混雑しすぎて、ゆっくり見学できなかったり、サービスの質が低下したりと、観光客自身の満足度も低下します。
日本の世界遺産は、その多くが歴史的な建造物や集落、あるいは手つかずの自然の中にあります。これらは元々、多くの観光客を受け入れることを想定して作られていない場合が多く、インフラや住民生活のキャパシティが限られています。世界遺産登録による知名度向上は、国内外からの観光客を劇的に増加させますが、この「脆弱な受け入れ基盤」と「急増する観光客」のミスマッチが、オーバーツーリズム問題を深刻化させる要因となっています。
事例1:世界遺産・白川郷の現状と課題
岐阜県の白川郷は、独特の茅葺屋根を持つ合掌造り集落が評価され、1995年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。登録以前から日本の原風景として知られていましたが、世界遺産登録を機にその知名度は飛躍的に向上し、多くの観光客が訪れるようになりました。
住民約600人程度の小さな集落に、年間約180万人から多い年には215万人もの観光客が押し寄せます。これは住民一人あたりに換算すると、年間1000人以上の観光客を迎えている計算になります。この圧倒的な観光客数に対し、地域は様々な課題に直面しています。
白川郷が直面するオーバーツーリズムの影響
- 交通渋滞とアクセス問題: 山間部に位置し、鉄道がない白川郷へのアクセスは主に車やバスに頼っています。特に大型連休や紅葉シーズン、冬季ライトアップ期間には、白川郷インターチェンジから駐車場待ちの車列が長く続き、深刻な交通渋滞が発生します。これは観光客だけでなく、地域住民の日常生活や緊急車両の通行にも支障をきたします。
- 住民生活への負担: 集落は住民の生活の場です。観光客の増加により、住民が好きな時間に畑仕事に出られない、騒音に悩まされる、プライベート空間への無断立ち入りが増えるなど、生活の質が低下しています。一部の観光客は集落をテーマパークと勘違いし、住民の敷地に無断で立ち入ったり、写真を撮ったりするケースも見られます。
- ゴミ問題: 人口の千倍を超える観光客が訪れることで、住民が出す量を遥かに上回るゴミが発生します。白川村にはゴミ焼却施設がなく、隣接する自治体に処理を委託しているため、ゴミの増加は大きな負担となります。集落内にゴミ箱を設置しないことで持ち帰りを促していますが、課題は残ります。
- マナー違反: 私有地への無断立ち入り、路上駐車、喫煙場所ではない場所での喫煙(合掌造りは火災に非常に弱い)、ゴミのポイ捨てなど、一部の観光客によるマナー違反が住民のストレスとなり、観光客への受け入れモチベーションの低下につながっています。
白川郷の住民は、古くから「結(ゆい)」と呼ばれる助け合いの精神で集落を守ってきました。また、昭和46年には「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を設立し、「売らない・貸さない・こわさない」の三原則を柱とする住民憲章を定め、伝統的な景観を守る努力を続けています。しかし、観光客の急増は、こうした地域の努力だけでは対応しきれない新たな問題を生み出しています。

白川郷のオーバーツーリズム対策:先進的な取り組み
白川郷は、日本で最初にオーバーツーリズムが問題になった地域の一つと言われており、その対策も一歩進んでいます。2020年にはオランダのNGOグリーンディスティネーションにより「世界の持続可能な観光地100選」に選出されるなど、その取り組みは国際的にも評価されています。
観光客の「量」をコントロールする対策
- 完全予約制の導入: 冬季のライトアップイベントでは、以前から一部予約制を導入していましたが、2019年からはマイカーを含む個人客に対しても完全予約制に変更しました。これにより、イベント時の来場者数を約半数に抑え、交通渋滞や路上駐車、住民とのトラブルが大幅に減少しました。今後はツアーバスの予約制も検討されています。
- 駐車場料金の値上げ: 環境維持のためのコスト増加に対応するため、村営駐車場の料金を値上げしました。普通車は1000円から2000円に改定されています。
- 夜間観光の制限: 住民の生活を守るため、集落内の民宿宿泊者を除き、駐車場の営業時間を午前8時から午後5時までに限定し、路線バスの最終便も午後5時半頃としています。これにより、住民のプライベートな時間を確保しています。
観光客の「質」を高める・行動を変容させる対策
- レスポンシブル・ツーリズムの推進: 観光客に地域への理解と共感を深めてもらい、責任ある行動を促す「レスポンシブル・ツーリズム」に注力しています。特設サイト「白川郷レスポンシブル・ツーリズム」を開設し、「結の精神」や村の暮らしと観光を両立するためのマナーを、日本語、英語、中国語、フランス語など5言語で発信しています。これは、単に禁止事項を羅列するのではなく、「なぜそうしてほしいのか」という理由を丁寧に伝えることで、観光客の行動変容を促す狙いがあります。
- 交通情報サイト「シラカワ・ゴーイング」: 観光庁の補助を受け、交通オーバーツーリズム対策総合サイト「白川郷すんなり旅ガイド シラカワ・ゴーイング」を開設しました。このサイトでは、3ヶ月先までの混雑予想カレンダー、リアルタイムのライブカメラ映像、交通規制情報などを多言語で提供し、「ずらし観光」や混雑回避ルートを推奨することで、観光客が自ら混雑を避けた行動をとれるように支援しています。
- ミッションラリーやデジタルマップ: 通過型観光から滞在型観光へのシフトを目指し、地域理解を深めるためのミッションラリーや、白川郷の文化や歴史を音声ガイド付きで解説する英語版デジタルマップを導入しています。これにより、観光客が合掌造りだけでなく、集落全体の魅力や住民の暮らしに触れる機会を増やし、「量より質」の観光体験を提供しています。
- 5Gを活用した次世代観光ガイドシステム: NTTドコモと連携し、観光客の位置情報に応じたリアルタイムコンテンツ配信や混雑状況の把握ができるシステムの実証実験を行いました。これにより、観光客の分散化や滞在時間の延長に効果が期待されています。
地域と観光の共存のための対策
- 火災対策の徹底: 木造茅葺の合掌造りは火災に弱いため、村民総出での放水銃訓練や「火の用心」の村回りなど、徹底した防火対策を行っています。また、タバコの火災を防ぐため、加熱式たばこ専用ブースも整備しています。
- 地域経済活性化: 観光収入だけでなく、ブランド米「白川郷コシヒカリ」の開発や土産菓子の開発、ふるさと納税などを通じて、地域経済の多角化を図っています。
白川郷の取り組みは、住民の生活を最優先とする「レジデンス・ファースト」の考え方に基づき、住民と観光客が共存できる持続可能な地域づくりを目指しています。様々な対策を柔軟に講じながら、課題解決に向けて取り組んでいます。
事例2:世界遺産・厳島神社の現状と課題
広島県の厳島神社は、海上に立つ朱塗りの社殿と大鳥居が神秘的な景観を作り出し、「安芸の宮島」として日本三景の一つにも数えられます。1996年に世界文化遺産に登録されて以来、国内外から多くの観光客が訪れるようになりました。
厳島神社は、島そのものを神として崇めた古代信仰に基づき、陸地を避けて海上に社殿が建てられました。この独特の立地は、潮の干満によって景観が変化するという魅力を持つ一方で、自然環境の影響を非常に受けやすいという脆弱性も抱えています。
厳島神社が直面するオーバーツーリズムの影響
- 大鳥居へのコイン差し込み問題: 厳島神社のシンボルである大鳥居の柱の隙間に、賽銭感覚で硬貨を差し込む観光客が後を絶たず、長年にわたり問題となっていました。海水による腐食が進む中で金属である硬貨が差し込まれることは、鳥居の劣化を早める原因の一つと指摘されています。これは、海外の一部地域にある習慣が持ち込まれたものとも言われ、マナー啓発の難しさを示しています。
- 景観への影響: 世界遺産登録地域では、景観保護のために建築物の色彩や形態に厳しい規制がありますが、観光客向けの新たな商業施設や看板などが、島の伝統的な景観と調和しないケースも見られます。また、ゴミの増加やトイレ不足も、景観や環境衛生を損なう要因となります。
- 自然環境への負荷: 厳島は弥山原始林を含む豊かな自然に恵まれていますが、観光客の増加は自然環境への負荷を高める可能性があります。また、異常高潮の頻発により社殿が冠水する回数が増えており、気候変動と観光客増加による環境変化への対応が求められています。
- 維持管理費の増加: 多くの観光客を受け入れるためのインフラ維持(トイレ、ゴミ処理など)や、貴重な建造物の保存修理には多大な費用がかかります。観光客の増加が必ずしも地域の税収増に直結しない中で、これらの費用をどう賄うかが課題となっています。
厳島神社は、平安時代の寝殿造りの様式を海上に実現した唯一無二の建造物群であり、自然と一体となった景観は日本人の美意識の基準ともなりました。また、潮の満ち引きに対応するため、回廊の床板に隙間を設けるなど、建築上の工夫も凝らされています。しかし、こうした繊細な構造や環境は、多くの観光客による物理的な負荷やマナー違反、そして地球環境の変化に対して非常にデリケートです。

厳島神社のオーバーツーリズム対策:保存と共存への模索
厳島神社と宮島地域は、世界遺産としての価値を守りつつ、観光地としての賑わいを維持するための対策を模索しています。
建造物の保存と修復
- 大鳥居の「令和の大改修」: 1875年に建てられた8代目の大鳥居は、長年の風雨や塩害、そして観光客によるコイン差し込みなどの影響で老朽化が進み、2019年から大規模な改修工事に入りました。完了時期は未定ですが、未来に引き継ぐための重要な取り組みです。過去にも度重なる修復が行われており、専門技術者による継続的な保存修理が行われています。
- 防災対策: 木造建造物であるため、火災対策は非常に重要です。自動火災報知設備や消火栓設備が設置されており、所有者による自衛消防隊も組織されています。
観光客の受け入れとマナー対策
- 入島税の検討: 廿日市市は、観光客から「入島税」を徴収し、環境整備や維持管理に充てることを検討しています。フェリー料金に上乗せする案などが議論されていますが、島民や通勤・通学者は対象外とするか、徴収コスト、税の公平性など、制度設計には課題が多く、導入には至っていません。しかし、観光客増加に伴うコスト増に対応するための新たな財源確保は喫緊の課題です。
- マナー啓発: 大鳥居へのコイン差し込み問題などに対し、立て札や多言語での注意喚起が行われています。しかし、文化や習慣の違いもあり、効果的なマナー啓発は継続的な課題です。
- 景観保護の規制: 特別史跡・特別名勝、国立公園などに指定されている区域では、土地の改変や建築物の建造などが厳しく制限されています。宮島町(現廿日市市)は条例を定め、建築物の色彩や形態などを規制することで、島全体の景観保全に努めています。
地域と観光の共存
- 多言語対応の情報提供: 外国人観光客の増加に対応するため、多言語での案内表示や観光情報提供が進められています。
- 島の魅力発信: 大鳥居の改修期間中も観光客が減少しないよう、大鳥居の模型設置や解説、そして厳島神社だけでなく島の自然や文化、住民の暮らしといった多様な魅力を発信する取り組みが行われています。
厳島神社と宮島地域は、貴重な文化遺産と自然環境を守りながら、観光地としての魅力を維持するという難しい課題に直面しています。入島税のような経済的な対策、マナー啓発による行動変容、そして建造物の継続的な保存修理など、多角的なアプローチで持続可能な観光地づくりを目指しています。
日本の世界遺産保護における共通課題と今後の展望
白川郷と厳島神社の事例から見えてくるのは、日本の世界遺産がオーバーツーリズムという共通の課題に直面しているということです。そして、その対策には、観光客の「量」のコントロールだけでなく、「質」の向上や行動変容を促す取り組み、そして地域住民の理解と協力が不可欠であるということです。
共通する課題
- 担い手不足と技術継承: 伝統的な建造物の保存修理には高度な技術が必要ですが、その担い手が不足しています。また、地域の祭りや伝統文化の担い手も、少子高齢化や人口流出により減少しており、文化の継承が危ぶまれています。
- 財源確保: 世界遺産の維持管理、環境保護、オーバーツーリズム対策には多大な費用がかかります。観光収入だけでは賄いきれない場合が多く、新たな財源確保(観光税、入場料など)や国の補助金への依存が課題となります。
- 住民と観光客の共存: 観光客を受け入れることによる経済的メリットと、住民生活への負担や環境負荷のバランスをどう取るか、住民間の合意形成をどう図るかが常に問われます。
今後の展望と必要な取り組み
- 「量より質」への転換: 単に観光客数を増やすのではなく、一人当たりの消費額を増やしたり、滞在日数を延ばしたりする「質の高い観光」への転換が必要です。地域の文化や自然を深く体験できるコンテンツ開発や、高付加価値なサービスの提供が求められます。
- レスポンシブル・ツーリズムの浸透: 観光客自身が観光地の課題を理解し、責任ある行動をとるという意識を国内外に広めることが重要です。多言語での情報発信や、なぜマナーが必要なのかを丁寧に伝える努力が必要です。
- テクノロジーの活用: 混雑情報のリアルタイム発信、デジタルマップによる分散誘導、AIによる観光客動態分析など、最新技術を活用することで、より効果的なオーバーツーリズム対策や観光マネジメントが可能になります。
- 地域連携と情報共有: 他の観光地や自治体と連携し、成功事例や課題を共有することで、より効果的な対策を講じることができます。国内外の先進事例を参考にすることも重要です。
- 住民参加と合意形成: 観光振興計画の策定段階から地域住民が積極的に参加し、住民の視点を取り入れた対策を進めることが、持続可能な観光地づくりの基盤となります。
まとめ
日本の世界遺産である白川郷と厳島神社は、その比類なき価値ゆえに多くの人々を惹きつけますが、同時にオーバーツーリズムという深刻な課題に直面しています。住民生活への影響、環境負荷、文化・景観の変容といった問題は、世界遺産そのものの価値を損ないかねません。
両地域は、予約制や入島税の検討といった「量」のコントロール、レスポンシブル・ツーリズムの推進や情報発信による「質」の向上、そして建造物の保存修理や防災対策といった多角的な取り組みを進めています。これらの事例は、オーバーツーリズム対策に「これ一つで正解」という万能薬はなく、地域の特性に応じた多様なアプローチが必要であることを示しています。
持続可能な観光地づくりは、地域住民、観光事業者、行政、そして私たち観光客一人ひとりが、世界遺産を「守り、活かし、未来へつなぐ」という意識を共有し、責任ある行動をとることから始まります。白川郷や厳島神社を訪れる際には、その地域の歴史や文化、住民の暮らしに敬意を払い、マナーを守って観光することが、貴重な世界遺産を守るための第一歩となるでしょう。